8月 282013
 

長崎新聞 によると。

 「県庁の地下に伊東マンショの黄金の十字架が眠っているかもしれない」-。

 日本のキリシタン史に詳しい日本二十六聖人記念館長のデ・ルカ・レンゾ氏から興味深い話を聞き、当時の様子を記録した史料を調べた。すると黄金の十字架だけではなく、16世紀の天正少年使節が持ち帰ったヨーロッパ各地の貴重な品々が埋蔵されている可能性が浮かんできた。

 長崎市江戸町の県庁。レンゾ氏によると、この場所にはかつて、日本でキリスト教の布教を始めたイエズス会が1570年代から江戸幕府の禁教令が出る1614年まで日本本部を置いていた。司祭や修道士が生活。日本での布教活動や国内情勢に関する報告書が作られ、海外に伝えられたという。

 墓地もあり、日本人だけでなく、スペインやイタリアなどから来た神父や修道士17人が葬られた。この中に天正少年使節だった伊東マンショが含まれる。

 伊東は日向(宮崎県)の出身。1582年にヨーロッパに出発した。使節は各地で盛大な歓迎を受け、さまざまな物を贈られたという。

 数多くの史料を翻訳した東京大発行の「大日本史料第十一編別巻之一」と「別巻之二」によると、伊東らはローマ法王に謁見(えっけん)した後、クレモナという都市を訪問。史料の一つには、後に法王となる司教が「各人に美しく貴き遺物を納めたる黄金の小十字架を與(あた)えたり」とする記載がある。これに先立ち、ローマでは貴族と認められ、黄金の印鑑が付いた証明書を受け取った記述も。伊東に贈られた印鑑は鶏卵の大きさで、片面にはローマ市の紋章などが彫られていたと書いている。ほかにも各地で象牙の十字架や豪華な服を贈られたと伝えている。

 伊東は90年に帰国後、1608年に司祭になって布教を続けたが、12年に病死。レンゾ氏は伊東の墓に何かを入れたとする史料はないとする一方、「死者を葬るとき、その生涯を象徴する物をひつぎの中に入れることはよくあり、ヨーロッパでもらった物を入れた可能性はある」と指摘する。

 伊東の墓は現在のどの辺りにあったのか。残念ながら場所を特定できる史料はない。しかし「墓地は端にあったと考えるのが普通」とレンゾ氏。そうなると現在の駐車場辺りが考えられるという。

 県は2009年度から2年かけて県庁敷地内で埋蔵文化財の予備調査をした。江戸時代とみられる石積みや明治初期に建造された県庁舎の遺構が見つかったが、イエズス会に関連する物は見つからなかった。

 天正少年使節を研究する長崎歴史文化博物館研究グループリーダーの大石一久氏によると、禁教令が出た1614年、墓地に眠っていた司祭らの遺骨は迫害を恐れマカオに運ばれた。この中に伊東も含まれていた可能性があるが、明確な記録はなく、県庁の地下に残る可能性も否定できないという。

 移転への準備が進む県庁。移転後は本格的な発掘調査が始まるため、歴史ファンの注目を集めそうだ。

 Posted by at 5:57 PM

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